1959年から始まり1990年までの31年間に渡って『兼高かおる 世界の旅』が放送されていました。
訪れた場所は、世界150か国以上で、北は北極から南は南極まで、そして距離としては地球を180周回ってレポートを届けていた兼高かおるさん。
まだ当時の日本人の海外渡航者は年間で5万人足らず。そんな中、兼高さんはどのようなきっかけで海外レポーターとして、また兼任ディレクターとして活躍していったのか?
気になり調べてみましたので、ぜひ最後まで見て下さいね。
生い立ち
- 本名 兼高ローズ
- 1928年生まれー2019年90歳にて亡くなる
- 兵庫県神戸市生まれ、母と兄と共に東京へ移住する
- 小さい頃から、とても活発な女の子だった
家族のことと活発な女の子だったこと
父親のこと
兼高さんは、父親のことは一切話されたことがないようですがインド系イギリス人の方だったのではないかと言われています。
母親のこと
母親は、資産家家系だったようで小さい頃から活発で、お転婆さんだった兼高さんのことは一切叱ったことがなかったようで、のびのびと育てられたと話していました。
大正モダンを絵に描いたような自由人
と、兼高さんは母親のことをそう話していました。
兄のこと
兼高さんは、インタビューの中で「兄が病身だった」と話されていました。他にあまり話されていないようですが、兼高さんが実家の敷地に建てたマンションの別フロアには、兄夫妻の住まいがあったようで、とても仲のいい家族だったことが分かります。
初めはアメリカ留学し、ホテル経営を目指した
兼高さんの兄は、病身だったことからいろいろな医師と接していて「医者っていいなあ」と思い受験しましたが失敗し、いろいろ目指したものの、最後に夏休みには家族とともに軽井沢や鎌倉のリゾートホテルで過ごすのが常で、ホテルは身近なものだったことからホテル経営を目指したそうです。
ロサンゼルス市大へ留学
ホテルと言えばスイスが本場なので、フランス語をマスターしようとしたが、発音が難しく断念。
イギリスやニューヨークの大学へ願書を出すも、受け付けてもらえずロサンゼルス市立大学へ行くことになりました。
教養の高さに圧倒され、猛勉強
カリフォルニア大学の教授がランチに招いてくれた時の事
他の招待客たちが、楽器を演奏し始めアンサンブルが始まったそうです。食事の後も、天文学の話題になったりと兼高さんの中では、とても焦りを感じたそうです。
これを埋めるべく、猛勉強を始めることになったそうです。
その結果、新聞に優等生として学費は免除になり、名前が載ることになりました。
体を壊して帰国
寝る間も惜しみ、夜間の講座も取り、夏休み中も通学していたせいか、体重が激減した。
もともと結核経験者なので、病院へ受診すると結核のことが分かってしまい、施設へ入所させられてしまうのを恐れた兼高さん。
その日のうちに、日本へ帰国することにしました。
英語を忘れないようジャーナリストへ
日本へ帰国後、英語を忘れないよう訪日外国人のガイドとインタビューの仕事を始めます。
世界一周早回り世界新記録達成
1958年(昭和33年)アメリカ人のジョセフ・カボリー氏が、早回り世界一周にチャレンジし、89時間18分37秒の世界記録を樹立した。
兼高さんは、外国人記者クラブで今度、スカンジナビア航空が東京とコペンハーゲンを結ぶ北回り航路を新設するという話を聞き、それを上手に利用すれば、新記録を打ち立てられる可能性があるということで、挑戦することにしました。
『80時間世界一周』
スカンジナビア航空で東京からコペンハーゲンに向かい、そこからヨーロッパ数か国を回り、アンカレジ経由で東京に戻るというルートで世界一周をした。
そして1958年、兼高さんは73時間9分35秒の世界早回り新記録を打ち立てました。
世界早回りから「世界の旅」誕生へ
兼高かおるさんは、この世界早回り新記録達成で一躍有名人となりました。
これを機に、ラジオ東京(現TBS)から仕事の依頼がきました。
この番組は、海外に詳しい有名人にインタビューするラジオ番組でした。この放送が好評となり、半年後にはテレビの海外取材番組『世界飛び歩き』に。
その後番組名が『兼高かおる世界の旅』となり、海外取材番組ができあがりました。
『兼高かおる世界の旅』誕生
1959年当時、1ドル360円という時代。
日本人の海外渡航者は年間で5万人足らずで、海外渡航の自由化はされておらず外貨の持ち出しが制限されていた。
そんな海外旅行は夢のような時に『兼高かおる世界の旅』の放送が始まりました。
ディレクター兼プロデューサー兼ナレーター!
1959年、第1回の行先はイタリアの首都ローマ。兼高かおるさんは、羽田空港から万歳三唱で見送られました。
1959年 羽田空港からローマまでの渡航時間 52時間
現在、直行便での飛行時間は往路約13時間、復路約12時間20分
同行者はカメラマンとそのアシスタントで、兼高さん含め3人でした。
なので自ら企画、取材して制作。飛行機の中でも、ナレーション原稿を書いていました。
シナリオも予定もなく、取材は車の助手席に乗って、珍しいものを見つけるとすかさず車を止め、撮影を開始。
兼高さんが気になった場所で足を止め、現地の人々に直接話を訊くというスタイルでした。
1年の半分は海外取材し、帰国後すぐに編集・番組制作を取り組んでいったそうです。
これが視聴者に海外への憧れや興味を持たせて人気番組となり、31年間も続くことになっていきました。
世界中を旅する
訪れた国は世界150か国以上、距離としては地球を180周回ったそうです。
1971年一般女性で初めて南極点に到達したのうちの一人。
北極点は、1989年に到達しています。
ソロモン諸島のジャングルの中、ナイジェリアのイスラム地区の王宮の中など
放送回数は、前番組名『世界飛び歩き』を含めて1586回になります。
著名人にも取材
現在では、取材が難しい方たちにも臆することなく堂々と対応していました。
イギリス国王チャールズ3世(当時チャールズ皇太子)
ジョン・F・ケネディ大統領(第35代アメリカ大統領)
サルバドール・ダリ(スペインの画家 )
ビョルン・ボルグ(スウェーデンの有名プロテニス選手)
国王や大統領、著名人との取材もエレガントであり、物おじしなく堂々としていて、その素敵な笑顔で対応して役割を果たしてきました。
まとめ
兼高かおるさんは、幼い頃からとても活発で、そこに大人になってエレガントさと美しさが加わり、多くの人に世界中を紹介する中で、影響を与えていった方です。
- 『兼高かおる世界の旅』は、1959年から始まり1990年までの31年間放送されました。
- 世界150か国以上、放送回数は1586回に上ります。
- 国王・大統領への取材も行っていた
- 当時世界早回り新記録を樹立した
- 一般人女性で初めて南極点に到達した
兼高さんは、スーパーレディであるし、かっこよくハンサムウーマンであると思いました。
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